上杉謙信公と言えば戦国武将を代表する名将と知られ、当時は越後の虎と恐れられていた。武田信玄公と前後五回に渡って戦われた川中島の決戦はあまりにも有名である。
その初代謙信公から十二代斉定公までが埋葬されている廟所で、正式には「米沢藩主上杉家墓所」となる。
下の写真の通り向かって中央が謙信公、左に二代景勝公、四代、六代、八代、十代、十二代と並び、右には三代、五代、七代、九代、十一代と並ぶ。横一直線に歴代の藩主が整然と並ぶ廟所は、国内に他に例を見ない。
尚、昭和59年1月に「国の史跡」に指定されている。

ここが墓所の入口、左側に駐車場がある。
第二駐車場もあり余程でもなければ、止められない事は無さそうである。
この日は平日でもあった為か、静かであった。
ピークはやはり毎年5月の連休に行われる「上杉祭り」の時期で、全国各地から参拝に訪れている。記帳を拝見すると、遠方からの住所が目立つ。
次に多かったのが8月のお盆の時期。
直ぐ側に管理事務所が有り、中にはボランティアで管理されておられる方が非常に親切で、質問したら色々と教えてくれた。「どちらから」と聞かれたが、やはり遠方から人が多いのだろう。


そこから進んで行くと上杉軍の軍旗「毘」と「龍」が見えてくる。

正面には謙信公の廟所が見える。
この日は雲一つ無い晴天で、日の当たる所は眩しい位だった。

これが謙信公の廟所、中央の奥にあり、一番立派なので間違う事は無いと思う。
私事ではあるが戦国武将の中ではやはり一番好きなのは謙信公、かなり以前になるがNHKの大河ドラマ「天と地と」を思い出す。
戦国の神将で自らを毘沙門天の化身と信じ、出陣した合戦は全て負けることがなかったという。
上洛を目の前にしての急死!もしあの急死が無ければ歴史がどう動いたか解らない?
(上洛とも成れば織田信長との一戦は避けられなかったらしい)
線香がともされており、おそらく途絶える事は無いのでは?

整然と並ぶ歴代藩主の廟所。
見事である。
一番手前が十二代の斉定公廟所。
次が十代鷹山公廟所。

各廟所はそれぞれの時代により建築様式材料も違いが見受けられるが、風雪に耐えそのままの姿で歴史の足跡を伝えている。

各廟所の前に立ち並ぶ灯籠。
家臣達の寄贈とか?









ここが二代目の景勝公廟所。初代米沢藩主でもある。謙信公没後会津城主となる。豊臣秀吉の五大老の一人だったたが、秀吉没後、徳川家康と対立。後に徳川軍門に下るものの、会津百二十万石から三十万石へと減封されて米沢藩主となる。慶長6年(1601)上杉景勝公の移封に伴い、謙信公尊骸は会津若松城から米沢城本丸に遷され、祠堂を造営して奉安された。この城外避難所として吹屋敷の当地を定められた。元和9年(1623)3月20日、上杉景勝公逝去の折、当地を廟所とし、御廟将をおいて警護された。以後、12代斉定公まで歴代藩主がこの地に埋葬されている。明治新政府は「破城令」を発し、明治6年米沢城は解体され、同9年城内祠堂の謙信公尊骸は、当廟所中央に移葬された。(※引用です)


こんな逸話が伝えられている。1961年、第35代米国大統領 に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団から質問を 受けた。「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」  ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん )です」  ※引用です

十代目(九代目藩主)治憲公(鷹山公)廟所。

 「成せばなる 成さねばならぬ 何事も
         成らぬは人の為さぬなりけり」!

鷹山公は傾いた米沢藩を立て直す為藩政改革への第一歩を踏み出す。 その後、農政を改革し、教育を進め、産業を発展させていった。この改革は今現在の日本経済の改革にも通ずる事なのだが、その辺少しは見習ってほしい。今の政治家では無理なのだろうか?
米沢市民には今でも英雄的存在で、3年前市民上げての生誕250年祭が大々的に開催され大盛況だった。その他毎年鷹山祭が開かれている。


後記

当初は簡単に写真アルバム形式で簡単に纏めるつもりでいたが、色々とコメントを考えている内にエスカレートして行き、何か歴史的なページとなって行きそうだ。
まだまだ書き足りない気もするが、このまま進んで行くと戦国時代からの流れを詳しく記する事になるので、その辺はネットで「上杉謙信」と検索すれば多くの方がHPを作られ、実に詳しく研究された内容を載せられているので、そちらをご覧下さい。


      

(参考)住所と電話番号
    山形県米沢市御廟1−5−30
          п@0238-23-3115


                    2004.08.31作成
                          2013.07.19更新

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