山形城(霞城公園) 04.09.12 撮影 |
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霞城公園案内図 これでは小さくて見えないでしょうから、図をクリックして頂ければ文字が見える位拡大します。 拡大図ご覧下さい。 |
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山形城・東大手門 山形城跡、現在は霞城公園として市民に親しまれ早朝にはジョギングする姿が多く見受けられる。中に市営球場・市民プール・弓道場・県営体育館・市民テニスコート・武道館等があり休日ともなるとスポーツ愛好家で賑わいをみせている。 |
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山形城・城主最上義光公 |
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山形城跡本丸一文字門石垣復元工事 |
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最上家の歴史 斯波兼頼は出羽国司・按察使として1356年に山形に入部し、その翌年山形城を築城した。室町幕府は兼頼に、幕府勢力の拡大のため、出羽国から南朝勢力を追い払うことを命じた。兼頼が築城した山形城は、本丸程度の規模の館であったらしい。兼頼は軍事面よりも行政・経済面で手腕を発揮し、今日の山形市の礎をつくった。兼頼の子孫は山形に居住して最上を名乗った。そして、最上家の在地権力の強化を図る為に、領内の要所に子弟や家臣を配置し、それぞれに城を築かせた。これらの城は、応永年間(1394〜1428年)頃に築城された。しかし、文永年間(1469〜1487年)頃から、これらの勢力が独立の傾向を強くし、最上家の権力が衰えたことによって、最上宗家と対立。こうして戦国時代を迎えることになる 11代目の最上義光によって、山形城は本格的に拡張整備された。天正年間(1573〜1592年)には、最上宗家と対立する勢力を討伐平定し、最上家の権力回復に成功した。 1600年の関ヶ原の戦いの際、最上家は東軍についた。そのため、最上家は西軍の上杉家の名将直江兼続に攻められた。直江軍は、山形城付近まで攻め寄せてきたが、関ヶ原での敗報を伝えられた直江軍は急遽引き揚げ、山形城は戦火を免れた。その折、兼続が山形城の西にそびえる富神山に登り、山形城を望んだところ、かすみがかかって見えなかったところから、「霞ヶ城」といわれるようになったという。 義光は関ヶ原の戦いの功によって、置賜を除く山形全域を支配するに至り、57万石を領することになった。新領地の要所には家臣を配置し、最上家の全盛期を迎えた。 ※引用です |
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市郷土館(重要文化財) |
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市郷土館の看板 当時の看板がそのままの形で付いていた。 |
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県立博物館 城跡に入り左に曲がって直ぐの所にあり、県内の地学・動植物・考古学・歴史・民俗等に関する資料が数多く展示されている。 尚県立博物館のHPはこちら 山形県立博物館 |
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山形美術館 20世紀のフランス絵画をはじめ、ピカソ・ロダン・シャガール等の作品が常時展示されている。 尚山形美術館のHPはこちら 山形美術館 |
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最上義光資料館 山形の町の土台を築いた11代藩主最上義光と山形城の資料を展示する資料館。 館内には義光が上杉勢との長谷堂合戦の際に身につけていた、弾痕の跡が残る兜や甲冑、指揮棒などの遺品や、長谷堂合戦図屏風、山形城本丸のふすま絵等の絵画類や調度品など、貴重な資料が多数展示されている。 ※引用です 関係HPはこちら 国土交通省 東北地方整備局 山形河川国道事務所 |
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右写真 |
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2013.07.19更新 山形の社寺史跡巡りに |